最近「平成最後の…」という冠がつくことが多くなってきましたね。なんだか時代の終わりを痛感します。
まして、自分のように昭和の時代に子どもの時代を過ごしてしまったら、今のこどもとは全くちがう環境で過ごしているような気がします。
マインドマップの第一回はなんとか書きまして、学習方法も少しずつ進めていきたいところではありますが、コラムシリーズの第二回は、「駄菓子屋」です。
「駄菓子屋」って知ってますか?
首都圏に生活しているものとしては、駄菓子屋がいっさいなくなってしまった感覚があるのですが、全国的にはどうなのでしょうか。
実際に旅行にいってみても、かなりの確率で「コンビニエンスストア」的なものに、駄菓子屋は駆逐されてしまったような気がします。
うちの近くではパン屋に、今のコンビニの走りのようなラインナップのなんでも屋的な店、あるいはおもちゃ屋のようなラインナップの店、うちの近くにはありませんでしたが、飲食店のような機能を持った店…などなど、さまざまな駄菓子屋が、住宅街の中に普通にあったような気がします。
生徒たちに聞くと「今もありますよ。よく大きなショッピングモールに行くとあります」という反応が返ってきたりします。
でも、あれではないんです。
なぜかというと、私が話をしたいのは、駄菓子屋におけるコミュニケーションのことなので。
だから、スーパー、コンビニに駄菓子がおいてあるかどうかという話ではないし、ショッピングモールに駄菓子屋があるかどうかという話ではないんですね。
「駄菓子屋」のコミュニケーション
というわけで、昭和の時代にあった「駄菓子屋」とはなんだったのか?
あの時代、たぶん今もあるところにはありますが、駄菓子屋は、普通の家と一続きだったのです。
だから、店には誰もいませんでした。
店とひとつづきになった家の中に、おばさんはひかえていたのです。
だから、ぼくたちは店につくと
「くださいな!」とか、「すいませ~ん!」とか、大きな声を出すことが必要でした。
今から考えれば平和ですよね。
たぶん、店番なんてしなくても、そう悪い人はいなかった。
だから、お客さんが買うときに、声をかけて、その時だけ店に出てくればよかった…。
私はいわゆる首都圏の住宅街の中に住んでいましたが、その中にそういう店が3軒ありました。パンと飲み物とタバコとあとは日用雑貨が少し。そしてぼくらの目当ては駄菓子とアイスでした。あとは多少のおもちゃとかくじびきとか。
そして、もうひとつ、大きな違いは、お金をちゃんとおばちゃんに払うこと、です。
「何をばかなことを言ってるんだ!」
と思わないでくださいね。
レジとバーコードなんてなかったし、いくつかの商品は、値段がわからないんですね。
棚にならんでいるだけなので、値札なんていちいちつけなかった。
特に駄菓子は、「ひもについた飴=あたりは大きくて、はずれは小さいやつ」とか、「きなこ棒」とか、値段がやっぱりわからないんですよね。
だから、ぼくらはおばさんに出てきてもらわないと困るんです。
「これ、いくら?」と聞かなくちゃ、買物ができない。
にぎりしめたお小遣いをどう使うかを計算するには、おばさんがいないとどれがいくらかもわからなかったわけです。もちろん、全部じゃないですよ。値段が高いものはたいがいパッケージに値段があるんだけど(たとえばアイスなんかは30円か50円かはわかりました)、10円か20円くらいの駄菓子になってくると、そもそもパッケージがなくて、たぶん、まとめて入っていた大きな箱の蓋にあるんだろうけど、それがはずされてしまっているし、勝手にその商品をとったりはできないから、おばさんに出てきてもらう必要があったんですね。
なんとなくわかりましたか?
そうなんです。
ぼくたちは、買物ひとつするにも、誰かに話しかけないと買い物ができなかったんですね。それは昔の商店街がそうだったように。
そして、駄菓子屋という、こどもの買物にも、そういう場所があったんですね。
おばさんが計算を間違えたり、一緒に計算し直したり…
現代の買い物事情
というわけで、何が失われてきたかわかりますよね?
いくら、コンビニやスーパーで駄菓子コーナーがあっても、昔ながらの雰囲気に作られたショッピングセンターの駄菓子屋があったとしても、そのコミュニケーションはないんです。
こどもが小さなカゴに入れて、買物気分をあじわっても、結局はレジにもっていって、バーコードをピッピッと読み込むだけ。
おばさんを呼ぶことも、値段を聞くことも、計算を一緒にして確認することもないんです。
だから、今のこどもたちは、一言も発することなく、買物をすることが可能です。
思い出してみると、ぼくらが大学生ぐらいの時には、すでにコンビニやスーパーなどがすべてとって変わってしまっているのですが、アルバイトを始めた先輩が、
「こっちは必死に挨拶しているのに、何にもしゃべらないで買い物するやつがいるんだ。失礼だと思わない?」
みたいなことを言っていました。
それが合っているか、正しいかはわかりません。
でも、「そういうことを言う人がいる」時代だったんです。
大人だって、スーパーやコンビニで、あいさつしたり、お礼をいったりする時代じゃなくなりました。
マニュアル的な店員の対応と、ほとんどしゃべらない客…
駅で切符を買うのも機械。
買物はバーコード。
飲食店でも下手をすれば、注文だってタッチパネル。すくなくとも呼び出しは「ピンポン」ですよね。
昔はあれも勇気がいりました。「すみません!」って声をかけないと、店員さんは来てくれませんでした。
今は、基本的に「ピンポン」か、勝手にくるマニュアルですよね。
現代のこどもたちと他者
というわけで、現代のこどもたちは、他者と出会う場所が圧倒的に不足します。
常に知っている人の中でコミュニケーションをとる。もちろん、周りに知らない人はたくさんいるんだけど、声を出さなくても行動できる。
つまり、自分の意思を伝える必要がないわけです。
自分がわかってもらわなくてもよい。相手がわかってくれるはず。
明確な言葉になっているわけではありませんが、自意識の深いところで、そんな刷り込みが起こっているのではないでしょうか。
きっとそれは、いじめ問題もふくめて、クラスでどう人間関係を構築するかまで関わるような出来事の気がします。
自分の意志はなんらかの形で相手が汲み取ってくれるから、買物ができてしまうわけですね。店員さんは下手をすれば、ロボットのような機械の一環なわけで、だからこそ、その一連の流れが狂わされると腹が立ってしかたがないのかもしれません。
サービスのあり方、という論点なら、腹を立てる正当性もあるかもしれません。ただ、今、言及したいのは「こどもの育ち」。
この観点から見るなら、目の前に立っている店員さんが、一人の人として目の前にいることを教えてあげたいものですね。
最後に余計なことですが、駄菓子屋で数少ないお小遣いを握りしめて、何を買うか、必死に考えたあの経験も計算能力に役立った気もします。
必死でためて、「これ買って、あれ買って…いや残してまた今度あれを…」なんて感じ。今のこどもたちは、カゴだけ持っていても、値段なんて知らないで、親と一緒にレジに出して、いくらかも知らないで手に入れてたりしませんかねえ。
あるいは、山ほど小遣い持っているから、平気で買えてしまったり…
10円を必死にためて、1円2円を節約していた自分の時代がよかったような気もします。
では。